カテゴリー別アーカイブ: 石井裕也

映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ(石井裕也、2017)

私は2000年代の邦画がすごく好きだ。振り返ってもかなり良い作品があった時代だと思っている。『夜空はいつでも最高密度の青色だ』を見ながら、その頃の単館系映画を思い出していた。

映画の冒頭は、一体何の映画なのかわからないくらい複雑な作りだった。ショットもバラバラで繋がらない、モノローグばかりで説明がない、音も映像もまとまりがない。後半にかけてそれがまとまって、普通の映画に近くなる。前半で魅力を感じた人は後半で飽きるかもしれないし、前半で距離を覚えた人は後半で楽しめるかもしれない。私はどちらかといえば前者だった。
前半と後半の作りが違うだけではなく、テーマも変化しているように感じた。映画で一貫して「死」や「関係性」を描くというよりも、前半で「死」の部分、後半で「関係性」の部分を扱っている、と思った。というのも、人が死ぬというテーマが終盤にかけてどこかへ行ってしまっていたのではないか、と感じたからではあるけども。

この作品で一番好きだと思った部分は、連鎖性があったことだ。物事の流れもそうだが、映像同士が繋がって進んでいく。ショットはバラバラでも構図や動きにはマッチカットによる一貫性があった。
物事の流れでいえば、美香(石橋静河)のくるくると回る動作は母親の動きと同じだ。死んだ母親の記憶は彼女の身体へと繋がっている。
また、美香が休憩中に唐揚げ弁当を食べるシーンの前に弁当工場のシーンが挿入されるといった部分にも、連鎖性を強く感じた。
いま存在しているものは過去に別な形で存在していた。つまり、形を変えてこれからも存在し続けるということだ。そのことをこの映画では自然な前提として、登場人物たちもそれを前提として生きている。だから美香が軽々しく口にする「死」も、映画がずっと保持する「死」の雰囲気も(そしてあっさりと死んでしまう松田龍平も)、そこには悲壮感はないような気がした。死んでも消えるわけじゃない。残されたアダルトビデオの中とかに、多分存在し続けている。

別の場所で起こる前後のカットの構図を似たものにしたり、タバコの火が街の光に変わっていったり、別のエピソードだがパラレルな作りにしたりして、別の物事がつながっていっていた。そこに関係性を見出すには安直かもしれないけれど、孤独な主人公たちの孤独じゃない感じが、私にはちょうど良かった。

池松壮亮って、労働者ぶるインテリが似合うよなあ。