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夕やけ雲(木下惠介、1956)

久しぶりに、昔の映画を見た。昔の映画のほうがドキッとするカメラワークやシーンが多い気がするのは、なぜなんだろう。『夕やけ雲』でも、最初と最後にある象徴的なショット—カメラが町を見下ろす洋一少年(田中晋二)の背中に向かって進むシーン—にときめかずにはいられないのだった。今の映画は数多く見ているけれど、このくらい印象に残るシーンというのは、あまり見かけていない。昔の映画は複雑にはできていない、と思っているからだろうか?

面白いなと思ったところいくつか。
まず、洋一の姉・豊子(久我美子)の不良娘っぷり。『夕やけ雲』での久我美子は、小津の映画に出てくるようなおしとやかなイメージとは正反対の、開放的でわがままで自己中、でもどこか憎めないようなキャラクターだった。貧乏を嫌うがゆえに、自分の経歴を詐称までして金持ちと結婚する。本当に、自分のために自由を得るために生きている。洋一が映画の主人公であるにも関わらず(そして、映画のほとんどが洋一視点のフラッシュバックの出来事にも関わらず)その奔放な姉が大きくフィーチャーされていることが、興味深かった。多感な中学生の弟にとってその自由気ままな姉は、どんな存在だったんだろうか。

次に、洋一とその同級生・原田くん(大野良平)の関係性。ふたりの関係は、男子中学生同士というよりも、女学生同士といったほうが近しいほど、親密である。女学生同士が手をつなぎ、腕を組み、お互いの胸ポケットに花を差し合うシーンなんかは、昔の映画では良く見る光景だ(小津の映画でもたまに見る)。それが木下の映画では、さも当たり前のように男子学生同士で行われている。それについては自然な行為に近しいのであわや見落としてしまいそうになるのだが、クロースアップで強調されると思わずドキっとする。木下のセクシュアリティに関係している事柄でもちろん済ますことはできる。でもなんとなく、洋一のクローゼットにしまいこんだままのセクシュアリティ(もしくは、まだ無意識の嗜好)と、姉・豊子のオープンな性格が対比になっているように見える。洋一のフラッシュバックで進む映画の中心にそのような姉が存在することは、姉の自己中な行為に辟易しながらも羨望を抱かずにはいられない洋一の思いがあるのではないだろうか。

とはいっても映画の主軸は、貧困の中にもある人情味あふれる日々の生活、にある。労働者に寄り添い、戦後の日本を生きて行く下町の人たちの優しい物語である。