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マリアンヌ(ロバート・ゼメキス、2016)

『カサブランカ』を強く意識している。ヴィシー政権下で、ドイツのスパイであるフランス人のマリアンヌ(マリオン・コティヤール)とイギリス駐在をするカナダ軍人のマックス(ブラッド・ピット)のメロドラマなのだが、物語もふたりの関係性もすべて虚構に包まれており、そして何と言っても映画そのものが虚構である、という事実を再提示してくるような作品だった。

「自分がコントロールできない圧倒的な力によって進む道が定められる」という状況下において、マリアンヌとマックスはお互いの意思を持って結びつく。圧倒的な力、ここでは戦時中という環境が個人の感情を征圧してしまうのだが、これほど古典的な前提があるだろうか。そんなメロドラマとして最適な舞台の上で、マリアンヌとマックスは自身と相手の感情を信じ合う。
しかし、愛に対する信用に亀裂が入るのも、戦時下という状況がもたらすのだ。どこまでも、その「外的要因」が入り込む。「外的要因」から感情を守るためには、『カサブランカ』でリックが自身を犠牲にして愛する女性を守ったように、マリアンヌも自分を犠牲に愛するマックスと娘アナを守り抜く。感情を押し殺したリックと比べて、マリアンヌの自害によって感情のみならず身体もろとも犠牲にするので、悲恋さは倍以上だ。

外的要因をひとつに絞ることにより、映画が主人公二人の感情により集中できると感じた。

『カサブランカ』との類似点をもうひとつあげるとすれば(そしてそこが『マリアンヌ』の世界をより完成形へと近づかせているのだが)、ロケーションだろう。『カサブランカ』はスタジオ撮影でできあがっている映画だが、『マリアンヌ』も多くのシーンの背景があからさまに CG で処理されている。砂嵐の中のラブシーンや空襲の中の出産シーン、爆撃後の街を背景に娘アナが初めて立ち上がるシーンなど、物語の中でマイルストーンとなるべき場面は特に人工的な印象を残す。綺麗にクレンジングされた物語の舞台と美しく仕上げられた映画の世界の中に残る自然なものが、マリアンヌとマックスふたり、そしてそのふたりの愛情だけになる。
これこそ、メロドラマの醍醐味ではないか、とさえ思うのだ。そして、メロドラマこそ、映画の醍醐味ではないか、と。

ところでそんな虚構の中の映画で一番虚構、というよりもはや胡散臭さすら覚えたのが、ブラッド・ピットがオンタリオ出身のカナダ人の役をしていることだった。この設定がなんだか受け入れられず、マリアンヌがマックスを「ケベコワ(ケベック人)」と茶化して呼ぶ時、つい笑ってしまった。