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わたしは、ダニエル・ブレイク(ケン・ローチ、2016)

ケン・ローチ監督の、現代イギリスにおける社会福祉を取り上げた映画。カンヌにてパルム・ドール他、多くの映画祭で賞を獲得したようだ。たくさんの人がこの作品に共感し、そして同じ思いと不安と憤りを抱えているのだと思った。

ふたりのメインキャラクター(ダニエルとケイティ)は、この社会における弱者のイメージを集めて作り上げたような存在で、誰が見ても共感や同情から逃れられないだろう。ダニエルは、精神を病んだ妻の介護と仕事を両立させながらの生活を長く送り、妻に先立たれてひとり生きている60歳手前の男性である。大工を生業としていたが心臓に疾患を持ったことにより医者からドクターストップがかかったので、給付金を申請するところから物語は始まる。ドクターストップがかかった体と、システマチックに申請をさばいていく政府の板挟みとなってしまう。給付金を受けるためのすべての手続きが規定に基づいて進む必要があるため、そこから一度でも外れてしまうと支援を受けることさえ難しくなってくる。ダニエルはその規定から外れていき、生活手段だけではなくモノも失い、そして尊厳さえなく扱われる。
もうひとりの主要な人物であるケイティも、社会的弱者に位置付けられる。シングルマザーで父親の違う子供ふたりを抱えている。ロンドンでホームレス用宿舎に暮らしていたが、一番下の子供の精神状態が極限にきたため、政府にアパートメントの支援を申請し、そして映画の舞台であるニューカッスルへと引っ越してくる。通信の大学で勉強しようとするも、そのような状況ではうまくいくはずもなく、そして仕事もなく、風俗で働くようになる。フード・バンクにて人目もはばからずいきなりトマト缶を開けて食べだすシーンや、スーパーマーケットでの万引きのシーンなど、見ているこちらがつらくなるような場面が多かった。

そんな弱者ふたりの交流は暖かく、彼らに関係する人々も優しさを持っている。規定で動く政府の仕組みと、人情で動く人間同士の関わり合いの対比が強く、国民を救うはずの政府がまったく機能していないことに対しての批判が浮き彫りになる。
善良な一市民であるダニエルとケイティ、そして一切の同情も介さない国の2対立で、この映画は成り立っている。

かといって、映画は観客に具体的な行動を起こさせるよう示唆するわけではない。場面と場面はブラックアウトでつながれており(そして最後のシーンもブラックアウトで終わる)、そこには時間の途切れることのない連続性を感じさせる。実際、簡単に解決できる問題ではないように、映画の中でも解決はされないのだ。
たとえフィクションであろうとも映画の中で完結させるような物語にしないところに、ケン・ローチの厳しさを見つけた。

かなり心が削られる映画ではあるものの、私たちはこの映画を見る必要が大いにある。イギリスだけではなく、日本でもどこでも、いつだって自分に降りかかる可能性がある事実をまず認識しなければいけない。